garireo

久しぶりのブログ更新になる。

 

 

怒涛のような毎日が過ぎていく中で、

いろんなことが起きているんだろうけど、

そこについていけていない自分が現在いる。

 

大事なことに心が頭が、身体がついていけてなくて、

そんな自分がもどかしい。

 

現在の自分の感情をうまく言葉にすることができない。

なんだか何かが足りない。

 

頭では分かっている。

 

「あがいて、あがいて、あがき抜く。」

 

その先に見える景色。

 

なんだかまとまらないんだけど、

プロフェッショナルで佐藤直紀さんの言っていた言葉。

 

素敵だなって思う。

 

 

何かをしなければいけない

から

何をしたい・せずにはいられない

そう思いたい。

 

 

Hello,2016

先日、一年を振り返ろうとした際にはうまく振り返ることができかった。

残さないといけない言葉が見当たらず、かっこいい文章も浮かばず。

 

だから、かっこよく2015年を振り返るのはやめようかなと思う。

というかすでに2016年が明けて、なぜか昨年同様体調をさっそく崩した。

年始にかけて少し体調が悪い中無理をしすぎたかな、なんて思うけど、まあこうやって無理くり休まないといけないという状況はそれはそれで何かの運命なのかな、なんて。

そういうものを感じて、「今の自分」「少し今年に向けて」を整理しようと思う。

整理の仕方がバラバラとなるが、感じているままに書こう。

 

思えば昨年は激動の日々だったな〜なんて感じる。

ハーブティー事業部にいた自分が海外での立ち上げ、というのを経験させてもらい帰って来た日々。立ち上げも中途の中で「部下を持つ」ということの難しさを痛感していた。それは日本に帰って来てからも。

1年目の自分がガツガツ仕事をしてどこまでも頑張り続けることを是とし、周りにもそれを求めていた時代、それでよかった時代・それが評価されていた時代から大きく立場が変わり、先輩として・リーダーとしての立場を求められるようになった去年一年間=2年目。

協調性や人を思いやる気持ち・人付き合いが得意だよね、と言われた自分から程遠い自分がいた。

メンバーの悲鳴や内なる声に耳を閉ざし、見ないふりをし自分に求めるのと同じものを求めた日々。

結果が失いたくないものを失い、うまく進まない事業が見え、そして責められもした。

 

駄目なことに向き合ったものの、これが駄目だとわかったがどうすればいいのかがはっきりしない日々だった。

そこから。早一年が過ぎようとしている。

強い、と思っていた思いを胸に新規の事業を模索し、しかしそれが今じゃないと気づいた日。人を中途半端に巻き込んだんじゃないか、と今も少し思っている。感じている。

そこから学ぶ・生かすべきことは何か?

「GNO(義理・人情・恩)」

先日読んだ本にかいてあった日々大事にすべきものだ。

まさにこれなんだと思った。僕が今何を想い生き、何を考えているのか?どう生きていくのか?

そこに携わってくれた人たちへの恩を、義理を、人情を、しっかり返していくべきだと今になって思う。それが当初の自分の意見とは違っていたとしても。

 

さて、そうして移った先輩の事業部。

率いていくリーダーとしてのポジションではなく、その一個下。ナンバー2というポジション。

見える景色が違った。変わっていく自分もいた。

リーダーとそのほかのメンバーは違う、とよく言われる。

そうだなと自分を持って感じている。

事業に全責任を持たないといけないリーダーと、甘えることのできるその他のメンバー。

自分の中で少し、いや少しじゃない。甘えが出ていた。

仕事を先延ばしにし、中途半端になっていった諸所のこと。

リーダーだったら、いや純粋に事業を思う自分のポジションであれば見なければいけない数字に目がいっていない自分。

ボロボロと崩れていくスピード・完成度。一般レベル以下になっていったように思う。

反省が多く残る年だった。

だからこそどうしていくか?

今年は、自分にしかできない仕事に目を向け、そこに対してコミットするからには、完成度とスピードを追い求める年にする。

タイムリミットがある。向き合うべき事柄が多々ある。1年度振り返った時にやりきった!と、これ以上ない!と言える年にしようと思う。

 

一方、得たものがある。とてつもなく大きなものだ。

それは「人が自分と同じではない」と理解すること、「メンバーがどうしたら力一杯やりがいを持って働けるか?」そして、「仕事に対する姿勢」だ。

メンバーを時にはしかり・時には褒める。ただただ厳しいだけではダメだ。

恐れずに、恥ずかしがらずに素直でいく。

そして、仕組み化すること。責任の所在を明確にし、そしてまた仕事を任せる時は明確に分割して渡してくこと。何を彼・彼女に期待しているのか?その人の素敵な将来を語っていきたい。

最後に自分自身が仕事を好きでい続けるということ。明確な楽観主義。

今やっている仕事を愛そうとすること、ネガティブな感情ではなくて、楽しもうとする心。

そうすると自然と、なぜかわからないんだけどさっきまで止まっていた思考が・仕事がすすでいく。大切な心の持ちよう。

そして常に前向きでい続けること。多くのことにチャレンジする今の立ち上げ期だからこそ多くの困難にぶつかる。

けどそれを乗り越えていこう。妥協したらつまらなくなっていく。

僕らが成し遂げたいことが遠ざかっていく。

 

松村さんが自分の病いに対し、事業に対するように、そしてニュースキャスターの黒木さんが力のかぎり生きていたように、

僕も素敵な自分になるために、静かにしかし高らかに熱狂していきたい。

これが僕の2016年、熱狂宣言。

やりきったと言える年にしよう。

ちっぽけな自分に出来ること

第3クオーターを終えて、振り返る時が来ている。

 

夢・志。

 

自分がこれまで書いてきたのを見ると、

「確かにそうなんだけど、少なくとも今はちょっと何かが違う」気がしている。

 

いろいろなことに自ら振り回されにいきながらも、

忙しい日々の中でその都度、課題がどんどん見えてきた。

 

「行動し」えなければ見えてこなかったこと。

だからこそ、改めて自分自身に問わなければいけないことが山積みになっている気がする。

 

今、僕は、どういう時期に向き合っているのだろうか?

 

 

The Intern

ロバート・デ・ニーロ

アン・ハサウェイ

主演の映画。

 

久しぶりに映画館で見た映画だ。

 

プラダを着た悪魔を見て、それでどうしてだかはうまく説明できないけど、

今回のこの映画も見たくなった。

 

映画が始まり、そして終わって、素敵な映画だなって感じた。

 

何かを伝えたくて、人はモノを創る。

 

監督のナンシー・マイヤーズさんは何をこの映画に込めたのだろう。

 

 

上映中、館内からは笑い声がもれたり、終わった後には、笑顔で、正のエネルギーをもった人が多かったように思う。

そして僕自身、すごく前向きな気持ちになっていた。

 

 

人生、うまくいかないことがたくさんある。

 

けど、ロバート・デ・ニーロ扮するベンもジュールズも、もっと言えば出てくる全ての人が、ポジティブだった。

「人生を楽しむ」

「変わらない良さを愛する」

「自分の仕事を愛する」

 

劇中に、人生は愛と仕事。というフレーズが出てきたが、

う~ん、いまおもうと、少しこれからは飛躍してしまうけど、

「愛」「楽しさ」に満ちた人生は最高だよなって改めてそう思う。

 

なんだか、「日常に愛を」「日常にユーモアを」、ほんの些細なことの積み重ねなのかもしれないけど、そういったものを増やす努力をしたら良いのかなって。

その温かなものが、周りの空気をほんのちょっと温かくして、それがどんどん色んな人に繋がっていく。

前向きで、楽しく、愛に包まれた素敵な日常に繋がっていく。

 

それは本当の意味で、素敵なものなのかもしれない。

 

Love and work...work and love,that'a all there is.

 

 

 

生きるということ

 

「不幸になりたいなんてことを願っているなんて人はいないのに。

みな幸せになりたいだけなのに、

生きるということは迷宮のようで。

 

手を伸ばせば、手を伸ばせば、届くような気がして。

手を伸ばすほど、手を伸ばすほど、暗闇は深く。

 

もっと遠くへ、もっと遠くへ、行きたくて頬を濡らし、

もっと遠くへ、もっと遠くへ、行きたくて汗をふりきって進む。

まぶたの裏、そこにはただ眩しいほどの銀河の海。

まだ何にも終わっていない。まだ始まってさえもいない。

今が全て、全てがいま。

さあ歩けるだけを歩こう。

途方もない美しさと広がりに満ちた世界を生きる。

 

風の靴を履いて、夢を追いかけると決めた日のこと

忘れてない、生まれたての陽の光のようなワクワク

まだこんなに、まだこんなに、僕の心は夢を見れる

自分ですら不思議なくらい確かな足取りで今日を進む」

 

アクアタイムズの『銀河鉄道の夜』という曲だ。

 

先日、黒木奈々さんという方が亡くなった。

面識はなく、テレビで正直みたことすらない。

けど、そのニュースを見たとき、いつもは見ないようなタイトルなのになぜか引き寄せられるようにしてその記事を読んだ。

その後、彼女の闘病生活を綴った本「未来のことは未来の私にまかせよう」を読んだ。

 

痛いほどに彼女の気持ちが伝わってきた気がする。

僕も昔、家で療養していた時期があった。

彼女の病気に比べたらほんと小さなものことだ。

比べることすらおこがましくて、書いているうちから消そうかなんて迷うほどに。

でもそんなちっぽけなことでも、僕は絶望の淵に立たされそうなくらい心が死にかけていた。

荒れて家族にあたり、酷い言葉を親に投げつけたこともある。

自分だけがさも苦しいかのように、全てが終わったかのように。

「なぜ自分だけがこんな目に遭わないといけないんだ」

そう思い、すべてに嫌気がさし、もういっそ死んだほうがマシだなんて思ったこともあった。

 

けど、死ねなかった。絶望もしていなかった。「絶望」という言葉はそんなに軽々しくなかった。

そして僕は今日を生きている。

 

彼女と同じように、「あの時間は自分にとって必要な時間だったのかもしれない」と思い込み、いや思って生きている。

そうできたのは僕には、僕を支えてくれる人たちと、そして「生」という「希望」があったからだと思う。

 

あのときに思った想いを胸に、僕はそれから、行きたいとこにいき、やりたいことをやり、会いたい人に会い、生きていこうと思って生きている。

そう、幸運なことに僕は生きている。

いつか必ず、頑張っていることは報われてるはずだと、そう思えているからできるのかもしれない。

 

けど理解した。

世界は、生は、神は、思ったより残酷なんだって。

 

神様がいるのなら、なんで彼女なんだって、そう思った。

与えられた理不尽すらも受け止め、それでも前を向いて、一歩一歩、小さくても踏み出している人がなんで死なないといけないんだって、そう思わずにいられなかった。

悲しかった。

 

「彼女の死を通して気づかされたことがある」なんてそんなこと言えない。言いたくもなかった。

彼女の精一杯生の「生」は、ちっぽけな僕がそんなことをいうために存在していたわけじゃないはずだから。

けど心の隅っこで、何かを、彼女の生と死を通して知った自分がいた。

そしてこのことを否定したいけど、でも一方で否定したくないと思っている自分がたしかにいる。

彼女の生は、僕や誰かが何かを知るためにあったわけじゃないんだけど、だからと言って彼女の死から少しでも何かを得たのなら、それを無関心に切り捨てるなんてこともできないし、してはいけないと思ったから。

 

 

僕もいつ自分が死ぬかわからない。

もしかしたら明日なのかもしれない。けど今の僕ですら明日自分が死ぬなんてリアリティをもって言えてない。

けど近い将来、そうなる可能性もなくはないってくらいは思える自分がいる。

 

死ぬ準備なんてまだできていない。

結婚だってしたいし、子供だって欲しい。

幸せにもなりたい。ただただ小さくてもいいから。

 

何者にもなれておらず、何かを成せてもいない自分に問う。

お前は彼女ほど1日1日を精一杯生きているのかい?と。

彼女よりも悩みのない生を生きながらも、彼女ほど前向きに生きようとしているのかい?と。

このままで良いのかい?と。