物事には、いつか終わりがくる。
長く関わった最後のお店がクローズした。
店頭に立ち、お客さんと会話した風景。
仲間たちと切磋琢磨しあった日々。
東京に行けば、必ずと行っていいほど寄った。
どうやったらお客さんにもっと知ってもらえるか、いい商品をみんなで作り、送り、最高の接客で迎える。
そんな目標に向けて動いていた。
そんな職場から離れて早1年が過ぎた。
そして、閉店したことが知った。
もう、あの場所に、あのお店はない。
笑顔で買い物をしてくれたお客さんとの日々も、もう。
終わりがくるというのはこういうことなんだと改めて知る。
切なく、心に何か穴があく感じ。
お祭りが終わった後の、なんとも言えないような感覚と少し似ているのだろうか。
物事には、いつか終わりがくる。
終わりが来ないようにと心のどこかで無意識に願い、思い、期待している自分がいる。
この日々を続けたいのなら、続きを見ていたいのなら、
いつか来る終わりを少しでも先延ばしできるように、後悔なく取り組んでいくしかない。
もう少し、後少し、もっと見ていたいと思える日々のため。
2017年を振り返ってと2018年。
毎年この季節が来ると振り返りと目標を書き続けてきた。
「心がなくなる」と書いて「忙」
その字の通りに、昨年一年は右往左往をし、新たなチャレンジに自信をなくし、日々を生きるので精一杯だった。
その中で改めて出て来た今年の目標、それが「その瞬間を全力で、楽しみ切って生き抜く」ということ。
2017年。
振り返れば、昨年の今頃は福袋を一生懸命に売っていた。決して良い終わりではなかった。そう、俺は負けている。自分に力が足りなくて、なんの力が足りないのかもいまよりもっとわかんなかった。
そこから数ヶ月、オフィスを移して、新規事業に取り組み始めた。
2017年。6月に渡航し、7月8月9月10月11月、そして12月ともどかしい日々を過ごしてきた。
うまく事が運ばない事・自分の実力云々かんぬんに、後ろめたさを感じ、その日々の中で何かを感じなくなってきていた。焦りだけが先行し、今に集中できずに。休みが休みでは無いし、動いてはいるんだけど自信も何もなかった。怒られたく無い・否定されてたくない・間違いたく無い。
その中で、これもダメでは、あれもダメでは、もっとダメらしく質素に生きているべきでは等々。
もがきなんとか前を向きたい中で、しかし思考がネガティブに。
これを変えたい。
なぜ上のようになってしまうか?
自信はどこから生まれて来るのか?
一つの回答がやりきったという根拠なき自信、そしてもう一つが全体のスケジュールの中で冷静に今を捉え続ける事。
今を全力で、楽しみながら生き切りたい。
そのためにできる事。
”全体感の中でのいまとその準備。”→目標とその実行。
自己改革のスピード→週に一回の振り返り。”自分のかけられる時間のことへの意識”
→自己改革を1週間ごとに。
”メンバー一人一人への寄り添い方。機嫌取りではなくて。”→率直な愛のあるコミュニケーション。
「全ては、結果を残すということ」へ。
봄봄봄
先週、来年四月に入ってくる内定者の情報・昨年までの採用過程で内定を途中で辞退した人たちの例を知る機会があった。
一人一人、純粋でまっすぐな想いを胸に抱えて、自分たちの住む社会に対して何かポジティブなインパクトを残そうと力強く生きようとしている姿を感じた。
社会がよりよくなるためには、力なき声を一人で声高に叫ぶのではなく、力を伴った声が一つまたひとりと生まれ、それが点が線になり面になることが必要だと思う。
だからこそ、僕らは彼らにとって先人であるはずだ。
そのことを考えた時、つまり、そんな彼らを導いていくことのできる人間でありたいと考えた時、自分の力の無さにまた情けなくなった。
何が足りないのだろうか?
自分のレベルがなぜ足りないのだろうか?
結論、イメージ。そこに人が来るイメージや成功への執念と哲学。
即断即決ができず、1歩先、2歩先のイメージができていない。
これをできるようになりたいし、できないとダメだと思った。
何のために自分は生き、働いているのか?
何のために人が集まっているのか?
一日一日がともすると、何の気なしにすぎダラダラとも過ぎ去っていくこともできる毎日に、しっかりと杭を打ち込む、濁流に流されない木にならないといけないと思う。
自らのできる最大限の一歩一歩で良い。諦めることなく、向き合っていきたいと思う。
友・仲間・家族、みんなの支えを
良いことを書こうとしているわけではない。
他者の、周りにいてくれる全ての人の存在は当たり前ではないということを改めて痛感した。頭でわかっただけでなく、心で感じた。
だからこそ、感謝を常に持ちたい。相手がいてくれること、してくれること・発してくれている言葉、自分に協力してくれることは当たり前ではない。それ自体が有難いことだ。
そしてそれにも増して、変な気遣いではなく相手を家族として尊重していくことをしたい。動機善なりか。もっと素直に、もっと相手を知りたい興味を持って。
自己否定に次ぐ自己否定を繰り返しながら、自己改革をしていく。その速度を早くする。圧倒的に今を生きていたい。それは楽しみながらということ。心ここにあらずではなくて現在をともに楽しもう。そのために一瞬一瞬を全力で。
そして多くの人のパワーを巻き込める力をつけたい。良いことがしたい・やりがいを求める人たちの力の結集を。
一歩先でも二歩先でも進む意欲を。
9月2日
えもしれぬ不安を感じている。
全てが中途半端な感じがして、やっていることが誰からも褒められない。全てがうまく行ってない気がする。
事業・友人の結婚式。
全てが中途半端で、後ろ指を指されている気がする。その時その時の決断を全力でやりたいと思っているのに、それが出来てない感じがする。
今やっている勉強も先が見えない、本当にこれが意味があるのかどうか。今すべきことなのだろうか、と。ただの自己満ではないのだろうかと。すがるところがなくて不安を感じている。
知っている。
この霧の中でできることは、それでも一歩一歩をしっかりと、現実から目を背けずに歩いていくしかないのだと。
支えとなる言葉を。
悶々と感じたことがあった。
結局自分は、いろいろな壁に阻まれ微力であると。
今の相手との関係を変えたい。
頼りっぱなしというか、相手が動かなければ動けない自分になってしまっている。
と、そう悶々としていた。
劣等感なのか、なんなのか。
悶々とした感情が渦巻いていた。
ただしその中で、上のことは相手との力関係性を考える上では、冷静に見て行きたい。
今後、自分ある程度主体的に動けるようにしていかないと結局は何も動かせないことになってしまうから。
ただし、そんな想いを抱えた中で読んだ内定者のブログ。
改めてなんだかそんなちっぽけなことはどうでもいいと思わされてしまった自分がいた。
”私利勿かりしか”
まだまだ結局自分はここにとらわえてしまっていた気がする。
もっと大きく見たい。
成し遂げたいことがある。
成し遂げなければならないことがある。
もちろん自分には”圧倒的な努力”が必要。
みんなよりも結構頑張ってるね、とかではなく圧倒的な努力が。
しかし一方で、自分が自分がと囚われすぎず、エゴにもならず、
みんなに手助けしてもらいながら、大きく前へ進み出したい。
私利勿かりしか・動機善かつ大なりか。
自分というものに囚われずに、大きく動かす。
以上。