生きるということ

 

「不幸になりたいなんてことを願っているなんて人はいないのに。

みな幸せになりたいだけなのに、

生きるということは迷宮のようで。

 

手を伸ばせば、手を伸ばせば、届くような気がして。

手を伸ばすほど、手を伸ばすほど、暗闇は深く。

 

もっと遠くへ、もっと遠くへ、行きたくて頬を濡らし、

もっと遠くへ、もっと遠くへ、行きたくて汗をふりきって進む。

まぶたの裏、そこにはただ眩しいほどの銀河の海。

まだ何にも終わっていない。まだ始まってさえもいない。

今が全て、全てがいま。

さあ歩けるだけを歩こう。

途方もない美しさと広がりに満ちた世界を生きる。

 

風の靴を履いて、夢を追いかけると決めた日のこと

忘れてない、生まれたての陽の光のようなワクワク

まだこんなに、まだこんなに、僕の心は夢を見れる

自分ですら不思議なくらい確かな足取りで今日を進む」

 

アクアタイムズの『銀河鉄道の夜』という曲だ。

 

先日、黒木奈々さんという方が亡くなった。

面識はなく、テレビで正直みたことすらない。

けど、そのニュースを見たとき、いつもは見ないようなタイトルなのになぜか引き寄せられるようにしてその記事を読んだ。

その後、彼女の闘病生活を綴った本「未来のことは未来の私にまかせよう」を読んだ。

 

痛いほどに彼女の気持ちが伝わってきた気がする。

僕も昔、家で療養していた時期があった。

彼女の病気に比べたらほんと小さなものことだ。

比べることすらおこがましくて、書いているうちから消そうかなんて迷うほどに。

でもそんなちっぽけなことでも、僕は絶望の淵に立たされそうなくらい心が死にかけていた。

荒れて家族にあたり、酷い言葉を親に投げつけたこともある。

自分だけがさも苦しいかのように、全てが終わったかのように。

「なぜ自分だけがこんな目に遭わないといけないんだ」

そう思い、すべてに嫌気がさし、もういっそ死んだほうがマシだなんて思ったこともあった。

 

けど、死ねなかった。絶望もしていなかった。「絶望」という言葉はそんなに軽々しくなかった。

そして僕は今日を生きている。

 

彼女と同じように、「あの時間は自分にとって必要な時間だったのかもしれない」と思い込み、いや思って生きている。

そうできたのは僕には、僕を支えてくれる人たちと、そして「生」という「希望」があったからだと思う。

 

あのときに思った想いを胸に、僕はそれから、行きたいとこにいき、やりたいことをやり、会いたい人に会い、生きていこうと思って生きている。

そう、幸運なことに僕は生きている。

いつか必ず、頑張っていることは報われてるはずだと、そう思えているからできるのかもしれない。

 

けど理解した。

世界は、生は、神は、思ったより残酷なんだって。

 

神様がいるのなら、なんで彼女なんだって、そう思った。

与えられた理不尽すらも受け止め、それでも前を向いて、一歩一歩、小さくても踏み出している人がなんで死なないといけないんだって、そう思わずにいられなかった。

悲しかった。

 

「彼女の死を通して気づかされたことがある」なんてそんなこと言えない。言いたくもなかった。

彼女の精一杯生の「生」は、ちっぽけな僕がそんなことをいうために存在していたわけじゃないはずだから。

けど心の隅っこで、何かを、彼女の生と死を通して知った自分がいた。

そしてこのことを否定したいけど、でも一方で否定したくないと思っている自分がたしかにいる。

彼女の生は、僕や誰かが何かを知るためにあったわけじゃないんだけど、だからと言って彼女の死から少しでも何かを得たのなら、それを無関心に切り捨てるなんてこともできないし、してはいけないと思ったから。

 

 

僕もいつ自分が死ぬかわからない。

もしかしたら明日なのかもしれない。けど今の僕ですら明日自分が死ぬなんてリアリティをもって言えてない。

けど近い将来、そうなる可能性もなくはないってくらいは思える自分がいる。

 

死ぬ準備なんてまだできていない。

結婚だってしたいし、子供だって欲しい。

幸せにもなりたい。ただただ小さくてもいいから。

 

何者にもなれておらず、何かを成せてもいない自分に問う。

お前は彼女ほど1日1日を精一杯生きているのかい?と。

彼女よりも悩みのない生を生きながらも、彼女ほど前向きに生きようとしているのかい?と。

このままで良いのかい?と。